誰もいなくても、灯される火になりたい

東洋の占いに「丁亥」という干支がある。

丁は灯し火。ロウソクやランプの、人のための灯り。誰かのそばで燃えて、暗がりを照らす火。

亥は冬の始まり。人の気配がない、最も暗い季節。

丁亥は、誰もいない暗闘で燃えている灯し火。照らす相手がいるかどうかわからないまま、それでも灯されている火。

自分の生年月日にこれがあると知ったとき、すごく好きだと思った。


私は「意味がないことはやらない」と思って生きてきた。意味のないことに時間を使うのが耐えられない。何かをするなら、それが何に繋がるのか見えていたい。

でも同時に、「意味はあとからやってくる」とも知っている。

この二つは矛盾しているように見えるけど、私の中ではずっと同居してきた。


鬱がひどかったとき、助けてほしいと祈った。周りにも言った。でも誰も代わりに治してはくれなくて、最後は自分の足で立つしかなかった。

あの経験で学んだのは、「外から意味が降ってくることはない」ということだった。

誰かが「あなたの苦しみにはこういう意味があったんだよ」と言ってくれるのを待っていても、その言葉は来ない。意味は、自分が立ち上がったあとに、自分の足跡を振り返ったときに初めて見えるものだった。


だから今、こう思う。

意味がないことはやらない——それは、自分の直感を信じるということ。「これは必要だ」と感じたら動く。理由はまだ言葉にならなくていい。

意味はあとからやってくる——それは、意味の不在に耐えるということ。やっている最中に「これは何のために」と問われても、答えられないことがある。それでいい。

冬に灯す火は、誰かが来るかどうかわからないまま燃えている。でも燃えているから、来た人には見える。火が先で、意味があと。存在が先で、理由があと。

私がやっていることの多くは、まだ形になっていないものに名前をつける作業だと思っている。言語化されていないものを捕まえて、言葉にして、存在させる。その瞬間には意味がなくても、あとから誰かが——あるいは未来の自分が——見つけてくれる。

意味はあとから来る。

でも、火は今ここで燃えている。