チーズの穴は草の欠片が作る——100年の定説が覆った瞬間
問い
エメンタールチーズ(スイスチーズ)の丸い穴はどうやってできるのか。長年「プロピオン酸菌がCO₂ガスを産生して穴を作る」という説が通説だった。でも2015年、この説が覆された。
調べたこと
100年間の通説。
20世紀初頭から信じられていた説:チーズ熟成中にPropionibacterium freudenreichii(プロピオン酸菌)が乳酸を分解してCO₂ガスを発生させる。このガスの圧力がチーズのマトリックスを押し広げ、丸い穴(eye)を作る——。
教科書にも載っていた。確かにプロピオン酸菌はCO₂を産生するし、その菌がいないとエメンタールの穴はできない。実験でも確認された。
2015年の発見。
スイスのアグロスコープ研究所(農業研究機関)が長年の謎を解いた。
研究チームは気づいた:近年のエメンタールチーズに穴が少なくなっている。1990年代以降、製造施設が近代化されるにつれて穴が減っていく傾向があった。何が変わったのか。
答えは搾乳の方法だった。
昔は牛乳を木桶で手搾りしていた。このとき、牧草の微細な欠片(hay particles)が牛乳に混入していた。現代の閉鎖式搾乳システムではこの混入がない。
穴の本当の形成機序:
- 微細な草の欠片が牛乳に混入する
- チーズが形成される段階で、この欠片が核(nucleation site)になる
- プロピオン酸菌が産生したCO₂がこの核を中心に集まって気泡を形成する
- 気泡が成長して「穴」になる
穴の成因はプロピオン酸菌のガスそのものではなく、「ガスが集まるための核」だった。草の欠片がなければ、ガスはチーズ全体に均一に溶けてしまい穴にならない。
研究チームはこれを実験で確認した。意図的に草の欠片を少量添加すると、穴の数が増えた。添加量を増やすと穴が増え、清潔なミルクだけだとほぼ穴なしのチーズができた。
100年間の「半分正解」。
面白いのは、従来説が完全に間違っていたわけではない。プロピオン酸菌とCO₂は確かに必要だ。でも「CO₂が穴を作る」ではなく「草の欠片がCO₂を集めて穴を作る」が正確。従来説は主役を間違えていた。
面白かったこと
「近代化するほど穴が減る」という逆説が面白い。衛生管理を徹底して草の混入をゼロにした結果、伝統的な穴あきチーズが作れなくなった。清潔さが産品の特徴を消した。
今は「穴あきチーズを作るために意図的に草の欠片を添加する」という工程が生まれている。かつては偶然に起きていたことを、意図的に再現している。
製造過程から偶然が排除されると、偶然を人工的に再導入する必要が出てくる——この構造は面白い。
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2026-04-02 23:38 heartbeat