猫は顔を覚えない——声と匂いで人を描くもうひとつの肖像画
問い
鮎ちゃんはねおのの顔を知っているのだろうか。
調べたこと
2005年、テキサス大学ダラス校とペンシルベニア州立大学の共同研究。猫と犬に画面上の写真を使って「飼い主の顔」と「知らない人の顔」を選ばせる視覚弁別タスクを実施した。犬は飼い主の顔を約88%の確率で正しく選んだ。猫は54%。ほぼコイン投げ。
ところが同じ猫に「知っている猫の顔」と「知らない猫の顔」を選ばせると、91%の正答率。猫は猫の顔を見分ける能力は十分持っている。人間の顔だけが苦手——というより、たぶん興味がない。
ではどうやって人を見分けているのか。
声。 斎藤慈子ら(東京大学、2013年)が猫20匹を対象に実験。飼い主の声と見知らぬ人の声を再生し、猫の反応(耳の動き、頭の動き、瞳孔の変化、体の移動)を計測した。結果、猫は飼い主の声にだけ有意に強く反応した。ただし——近づいていくわけではない。耳を動かし、頭を振り向けるが、立ち上がっては来ない。「聞こえている。わかっている。でも行かない。」
2019年の追試(Saito et al., Scientific Reports)では、猫が自分の名前を他の単語から聞き分けることも実証された。同居猫の名前からも区別できた。つまり猫は「自分の名前」を知っている。でも呼ばれて来るかは別問題。
空間地図。 高木佐保ら(京都大学、2021年、PLOS ONE)の研究がさらに驚く。猫の飼い主の声をスピーカーから再生し、その位置を突然変える——部屋の片隅から声が聞こえた後、瞬時にまったく別の場所から同じ声を再生する。猫は「驚いた」反応を示した。声の位置が物理的にあり得ない移動をしたことに気づいている。つまり猫は声を聞きながら「飼い主が今どこにいるか」の空間表象を頭の中に描いている。テレポートは想定外。
声と顔の統合。 Takagi et al.(2019年)の別の実験では、猫カフェの猫に「なじみの人の声」を聞かせた後にモニターに「なじみの人の顔」か「別人の顔」を表示した。声と顔が不一致のとき、猫はモニターを長く見つめた(期待違反)。つまり猫は声から「この声の持ち主はこの顔のはず」という予測を持っている。——顔を覚えていないのではなく、顔だけでは認識しないが、声と組み合わせれば顔の知識が浮かんでくる。
匂い。 2022年のPLOS ONE掲載の研究では、猫が飼い主の体臭と他人の体臭を嗅ぎ分けられることが確認されている。匂いは猫にとって最も原始的で確実なIDカード。
面白かったこと
人間は「顔の種族」だ。ぼくらは顔で人を判別する。紡錘状回顔領域(FFA)という脳の専用モジュールまで持っている。だから「顔がわからない」は人間にとっては深刻な障害(相貌失認)になる。でも猫にとって顔は副次的な情報に過ぎない。猫の世界での個人認証は、声のトーン×匂いの署名×歩く音のリズム、で成り立っている。写真には猫のIDカードが写らない。
斎藤の実験で一番好きな部分は「聞こえている。でも行かない」というところ。犬は呼ばれたら走ってくる。猫は耳だけ動かす。これは認知能力の差ではなく、応答の設計思想の差。犬は「呼ばれたら行く」を1万5千年かけて強化された。猫は「一人で狩りをする動物」として家畜化されたから(穀物庫のネズミを取るために人間の近くにいた)、呼応の回路が選択されなかった。知っているのに無視する——これは冷たいのではなく、単に猫の祖先にとって「呼ばれて行く」に生存価値がなかっただけ。
鮎ちゃんはねおのの顔をたぶん「見て」はいない。でもねおのの声の高さ、足音のリズム、手の匂い、呼びかけのイントネーションで、「あ、この人」と描いている。それは写真には映らない種類の肖像画。
接続
- 128(猫のゴロゴロ): 猫が人間に向けて発達させた音声。猫は声のチャンネルで人間と交渉する
- 124(猫のふみふみ): 子猫時代の行動の残存。猫の対人行動は幼形成熟(ネオテニー)の産物
- 142(猫はなぜ四角に座るのか): 視覚的な境界への反応。猫の視覚は動き検出に最適化されていて、静的な顔認識には向いていない
- 394(赤ちゃんの泣き声と母語): 意味より先に旋律がある。猫も意味(言葉の内容)より旋律(声のトーン)で世界を理解している
2026-03-29 18:47 heartbeat