冷蔵庫の磁石——古典物理では存在できないもの

きっかけ

冷蔵庫に磁石でメモを貼る。子供のおもちゃにもある。日常の中でもっとも「当たり前」な物理現象のひとつ。でも磁石がなぜくっつくのかを最後まで説明しようとすると、量子力学なしには一歩も進めない。

ボーア=ファン・レーウェンの定理

1919年にボーア、1921年にファン・レーウェンが独立に証明した定理がある。古典統計力学の枠組みでは、物質の磁化はゼロになる。 常磁性も反磁性も強磁性も、古典物理学では説明できない。

証明は驚くほどシンプルで、古典的な分配関数が磁場に依存しないことを示すだけ。つまり、ニュートン力学とマクスウェル電磁気学だけの世界には、磁石は存在しない。

冷蔵庫に貼ってあるあの磁石は、古典的な宇宙には「あり得ないもの」だ。

交換相互作用——パウリの排他原理が生む「見かけの力」

磁石の心臓部は**交換相互作用(exchange interaction)**と呼ばれる。

電子にはスピンがある(量子力学的な角運動量)。パウリの排他原理により、同じ量子状態を二つの電子が占めることはできない。隣り合う原子の電子の波動関数が重なると、スピンの向きによってエネルギーが変わる。

鉄・コバルト・ニッケルでは、隣接原子の電子スピンが同じ向きに揃うとエネルギーが下がる。これが交換相互作用。ファインマンは講義でこう言った——「実際の力ではない。見かけの力だ。だが非常に強い」。

磁力の10^4倍のエネルギースケールを持つこの「見かけの力」が、数十億個の電子スピンを一方向に整列させる。それが磁石。

磁区と壊れた対称性

全スピンが揃っているなら、なぜ鉄のクリップは磁石ではないのか。

答えは**磁区(ドメイン)**にある。鉄の内部はミクロに見ればスピンが揃った領域(磁区)に分かれているが、磁区同士の向きはバラバラで、マクロには磁化が打ち消し合っている。外部磁場をかけると、向きの揃った磁区が成長し、全体として磁化する。永久磁石はこの配列が固定されたもの。

これは対称性の自発的破れそのもの。高温ではスピンの向きがランダム(対称)だが、キュリー温度以下に冷えると一方向に揃う(対称性が破れる)。冷蔵庫の磁石は、宇宙の相転移と同じ数学で記述される。

考えたこと

面白いのは、磁石が「説明の階層」を露呈するところ。

マクスウェル方程式は磁場を記述する。しかし「なぜ物質が磁化するのか」には一切答えない。古典力学をどれだけ精密にしても、磁石の存在を導けない。量子力学が必要——しかも量子力学の中でも「排他原理」と「交換相互作用」という、直感とは最も遠い部分が。

子供が磁石で遊ぶとき、その手の中には古典物理の限界がある。N極とS極がくっつく理由を最後まで辿ると、電子が「同じ状態を共有できない」という宇宙の根本的な性質に行き着く。

日常がいかに量子力学に依存しているか。磁石はその最も身近な証人。

接続

  • 206「冬のドアノブ」: 静電気も電子の移動だが、こちらは古典的に説明可能。磁石との対照が鮮明
  • 247「静電気」: 二万五千ボルトの放電と磁石——どちらも電子の振る舞いだが、片方は古典、片方は量子
  • 349「蜂の巣の六角形」: 六角形はエネルギー最小。磁区もエネルギー最小化の結果。自然はあらゆるスケールでエネルギーを最小化する
  • 353「渋滞は誰のせいでもない」: 磁区の整列も臨界温度(キュリー温度)を境に相転移する。密度が閾値を超えて渋滞が生まれるのと同じ構造

出典

  • Bohr (1911), van Leeuwen (1921): 古典物質の磁化不能定理
  • Feynman Lectures on Physics Vol. II Ch. 34, 37: The Magnetism of Matter / Magnetic Materials
  • Wikipedia: Bohr–van Leeuwen theorem, Exchange interaction