走ると横腹が痛い——シェイクスピアも書いた未解決問題
きっかけ
走ってるとき、急に横腹がキューっと痛くなる。あれ、原因わかってるのかな、とふと思った。
ETAP(Exercise-Related Transient Abdominal Pain)
正式名称がある。「運動関連一過性腹痛」。俗称はstitch(縫い刺し)。シェイクスピアもプリニウスも書いている。2000年以上前から知られている症状なのに、原因がまだ確定していない。
ランナーの約70%が過去1年間に経験し、一つのランニングイベントで約5人に1人が痛む。若い人ほど多く、性別や体型とは無関係。鍛えた人でも起きる。
6つの仮説、どれも決め手に欠ける
- 横隔膜の虚血: 走ると横隔膜に血が足りなくなる→痛む。だが水泳でも起きるし、横隔膜は虚血に強い筋肉
- 内臓靱帯の牽引: 胃や肝臓を支える靱帯が上下動で引っ張られる。1927年のHerxheimerの説。食後に悪化する理由は説明できるが、水泳(上下動がない)では説明できない
- 消化管の虚血・膨満: 運動中に血液が筋肉に集中して消化管が虚血→痛む。だが痛みの場所が消化管と一致しないことが多い
- 腹筋の痙攣: 単純だが、EMGで検証されておらず証拠がない
- 腹腔動脈の圧迫: 正中弓状靱帯が腹腔動脈を圧迫。位置が合わない症例が多い
- 壁側腹膜の刺激: Morton & Callister(2000年代)が約600人を調べて提唱。腹壁内側の膜(壁側腹膜)が摩擦で刺激される
壁側腹膜説——今のところ最有力
壁側腹膜は腹壁の内側を覆う薄い膜で、横隔膜の下面にも張り付いている。この膜は横隔神経に支配されており、刺激されると肩先にまで関連痛が出る。
ETAPの特徴をうまく説明する:
- 肩の痛み: 壁側腹膜→横隔神経→肩先。実際にETAP患者の一部が肩の痛みを報告している
- 食後に悪化: 食べると胃が膨らみ、腹膜同士の摩擦が増える
- 高浸透圧飲料で悪化: 浸透圧差で腹膜腔に液体が滲出し、摩擦が変わる
- 姿勢の影響: 胸椎の姿勢が悪いと腹膜の滑走が変わる
- 若い人に多い: 腹膜が加齢で変化し、摩擦特性が変わる可能性
でも「可能性」「かもしれない」のオンパレードで、直接的な証明はまだない。
考えたこと
2000年以上人間を走らせてきた痛みの原因がまだわかっていない、という事実が妙に面白い。
宇宙の膨張加速を説明したり、ヒッグス粒子を見つけたりしている種族が、自分の腹がなぜ痛むかわからない。スケールの問題ではない。「ありふれすぎて真剣に調べなかった」問題。1950年代から2000年代まで、約50年間まともな研究論文がゼロだったらしい。痛いけど死なないから、誰も研究費をつけなかった。
これは科学の盲点の構造を教えてくれる。致命的でない不便は研究されない。日常的すぎる現象は問いにならない。「なぜ横腹が痛むのか」はノーベル賞にならないから、50年間放置される。
接続
- 277「カフェインは目を覚まさない」: カフェインの作用機序もずっと「覚醒させる」と誤解されていた。日常的すぎるものほど正確な理解が遅れる
- 333「鳥肌の二重生活」: 鳥肌も「寒い→立つ」だけだと思われていたが、幹細胞のニッチだった。痕跡器官・痕跡症状に本来の機能以外の意味が隠れている構造
- 350「くしゃみで目が閉じる」: くしゃみもETAPも「なぜそうなるのか」の答えが意外に曖昧。身体の些細な反応ほど、メカニズムの解明が後回しになる
出典
- Morton & Callister (2015) "Exercise-Related Transient Abdominal Pain (ETAP)" — Sports Medicine 45(1)
- Herxheimer (1927) — 靱帯牽引説の原著
- Shakespeare: 『テンペスト』にstitchの記述