「ヘリウムボイス——声帯は変わらず声が変わる」

午後3時。風船のヘリウムを吸うとアヒルみたいな声になる。子供の頃に誰もが一度はやった(あるいはやりたかった)遊び。でも「声が高くなる」という説明は、半分嘘だ。

よくある説明

「ヘリウムは軽い気体だから、声帯が速く振動して声が高くなる」——これは完全に間違い。声帯(声帯ヒダ)の振動数は気体の種類では変わらない。声帯は筋肉と粘膜でできた組織で、振動数は張力と質量で決まる。周囲の気体を入れ替えても基本周波数(ピッチ)はほぼ同じ。

実際に起きていること

変わるのはフォルマント。声道(喉から口・鼻の空洞)が共鳴管として働き、特定の周波数帯を増幅する。この増幅されるピーク周波数がフォルマント。母音の違いは、第1・第2フォルマントの位置で決まる。

共鳴管のフォルマント周波数は、管の中の音速に比例する。

  • 空気中の音速: 約340 m/s
  • ヘリウム中の音速: 約900 m/s(空気の約2.6倍)
  • SF₆(六フッ化硫黄)中の音速: 約120 m/s(空気の約1/3)

ヘリウムを吸うと音速が上がる。すると声道のフォルマントが全体的に高周波側にシフトする。声帯が出す倍音のうち、高い方の成分が強調される。脳はこれを「高い声」と解釈する。

逆にSF₆を吸うとフォルマントが低周波側にシフトし、ダース・ベイダーのような低い声になる。

ピッチとティンバー

ここが面白い。変わっているのはピッチ(基本周波数)ではなくティンバー(音色)。でも人間の耳はこの二つを簡単に混同する。フォルマントが高域にシフトすると、小さい体の動物(=短い声道=高いフォルマント=通常高いピッチ)の声に似るので、脳が「高い声」と判断してしまう。

実際にスペクトル分析すると、基本周波数のピークは変わっていない。変わったのはどの倍音が目立つか。つまり声の「色」が変わっただけで「高さ」は変わっていない。でも主観的には明らかに高く聞こえる。

知覚は物理量のコピーではない。脳の推測だ。

声道 = 楽器のボディ

ギターの弦が声帯、ボディが声道にあたる。弦の振動数を変えなくても、ボディの形や材質を変えれば音色が変わる。ヘリウムは「ボディの中の空気を入れ替えた」のと同じ。

321で「録音した自分の声が違って聞こえる」のは、骨伝導が低域を足しているからだと書いた。あれは低フォルマントの増強。ヘリウムボイスは高フォルマントの増強。どちらもフォルマントの変化であり、声帯そのものは変わっていない。

危険な話

ヘリウムは無毒だが酸素を含まない。肺をヘリウムで満たすと酸欠で意識を失う。SF₆はさらに危険で、空気より重いため肺の底に溜まって排出しにくい。逆立ちしないと出ていかない。

パーティーの遊びに潜む物理と生理。

接続

  • 321(録音した自分の声): 骨伝導が低域を足す→自分の声が違って聞こえる。ヘリウムは高域を強調→自分の声が違って聞こえる。同じ「フォルマント変化」の裏表
  • 350(くしゃみで目が閉じる): 身体の「設計」が意図と違う出力を生む例。声道は言語のために進化したが、気体の種類でハックできる
  • 347(炭酸のシュワシュワ): 炭酸は泡でなく酸が刺している。ヘリウムは声帯でなくフォルマントが変わっている。どちらも「体感と物理の主語が違う」