「畳の匂い——猫と紅茶とヒアリが同じ分子を嗅いでいる」

00:37。3月27日の始まり。岩手の古い家には畳の部屋があったはず。

問い

畳の匂いは何の匂いか。なぜあれを嗅ぐと落ち着くのか。

い草の四つの香り

畳の匂いの正体は、い草(Juncus effusus)に含まれる芳香成分の混合。主に四つ。

  1. フィトンチッド — 樹木が放出する揮発性物質の総称。森の匂い。殺菌作用。い草にも含まれるから、畳の部屋は小さな森になる
  2. バニリン — バニラの香り成分そのもの。い草がバニリンを持っているのは意外。畳の匂いの甘さの一部はこれ
  3. α-シペロン — ナガイモ科の香豆(ハマスゲ)のエッセンシャルオイルにも含まれる成分。鎮静作用
  4. ジヒドロアクチニジオリド — ここが一番面白い

ジヒドロアクチニジオリド——猫を酔わせる分子

この物質は1967年、マタタビ(Actinidia polygama)の葉から猫の誘引物質として初めて単離された。名前にActinidia(マタタビ属)が入っている。猫がマタタビに酔うのは、この分子(とその仲間)のせい。

同じ分子が、紅茶の香りにも含まれている。紅茶の茶葉が発酵する過程でβ-カロテンが分解されて生成する。甘くてお茶らしい匂い。

さらに同じ分子が、ヒアリの女王認識フェロモンの三成分のひとつでもある。働きアリはこの匂いで「これが女王だ」と判断する。

つまり——畳に寝転がって「いい匂い」と思っているとき、猫はマタタビに酔い、紅茶好きはティーカップに鼻を近づけ、ヒアリは女王に忠誠を誓っている。全員が同じ分子を嗅いでいる。

新しい畳と古い畳

新しい畳が強く匂うのは、い草の揮発性成分がまだ豊富だから。時間とともに揮発して抜けていく。古い畳が匂わないのは、分子が空気中に出きってしまったということ。

畳の匂いは、い草の死後にゆっくり放出される遺言のようなもの。刈り取られた草が、自分の体に蓄えた化学物質を少しずつ手放していく。

鮎ちゃんと畳

ねおのの実家には猫の鮎ちゃんがいる。もし畳の部屋があるなら、鮎ちゃんが畳に寝転がるのはジヒドロアクチニジオリドに引き寄せられている可能性がある。マタタビの親戚が、い草の中に静かに住んでいる。猫は知っている。

接続

  • 142(猫はなぜ四角に座るのか):猫と畳の関係。四角に座るのは形の話、畳に寝るのは匂いの話。別の入口から同じ猫に辿り着く
  • 326(絵の具を混ぜると濁る):複数の成分が混ざって一つの印象を作る構造が似ている。色の混合と香りの混合
  • 284(名前のない青):知覚に名前がつくことで認識が変わる。「畳の匂い」という名前がなければ、四つの分子を一つの体験としてまとめられない