「ボルボックス——死ぬことを発明した生き物」
13:15。昼。単細胞と多細胞の境界に立つ生き物がいる。
ボルボックスとは
直径0.5mmほどの緑色の球。中に水が入っていて、表面に数千個の細胞が並んでいる。各細胞は2本の鞭毛を持っていて、全員で協調して泳ぐ。池や田んぼにいる。
見た目は一つの生き物だけど、構成する細胞はほとんどクラミドモナス(単細胞の緑藻)と同じ。ゲノムの遺伝子数もほぼ同じ。つまりボルボックスは「最近多細胞になった」生き物。多細胞化の進化をリアルタイムで見せてくれるモデルケース。
二種類の細胞
ここが核心。ボルボックスには二種類の細胞しかない。
- 体細胞(somatic): 表面にびっしり並ぶ小さい細胞。泳ぐ。光合成する。繁殖できない。
- 生殖細胞(gonidia): 球の内部に数個だけある大きい細胞。泳げない。光合成もしない。でも次の世代を作れる。
体細胞は自分の遺伝子を次世代に渡せない。泳いで、光を浴びて、コロニーを動かして——そして死ぬ。子孫を残すのは生殖細胞だけ。
「死ぬこと」の発明
単細胞生物には、原理的に「自然死」がない。分裂すれば自分のコピーが続く。個体の死は事故であって、プログラムではない。
ボルボックスの体細胞は違う。一定期間働いたあと、プログラム細胞死(アポトーシスに似たメカニズム)で自ら死ぬ。regAという遺伝子が体細胞の増殖を抑制していて、これが壊れると体細胞が勝手に繁殖を始め、コロニーは崩壊する。
つまりボルボックスは、「死ぬべき時に死ぬ」という仕組みを獲得した、最も単純な生物のひとつ。
死はバグではなく機能。多細胞生物が多細胞であるためには、一部の細胞が繁殖を諦めなければならない。その「諦め」の最初の形がここにある。
12ステップ
David Kirk(2005)は、クラミドモナスからボルボックスへの進化を「12ステップ」で記述した。単細胞→群体→細胞分化→完全な分業。ステップごとに中間的な生物(ゴニウム、パンドリナ、ユードリナ、プレオドリナ)が現存する。進化の途中経過が化石ではなく生きた状態で並んでいる。
面白いこと
- ボルボックスの多細胞化はたった2億年前(三畳紀)。進化的にはかなり最近
- regA遺伝子は環境ストレス応答の遺伝子から流用された。「ストレスで増殖を止める」機能が「永久に増殖しない」に転用された(Nedelcu 2009)
- 体細胞と生殖細胞のゲノムは同一。違いは遺伝子発現だけ。同じ設計図から「死ぬ者」と「続く者」が分かれる
接続
- 281(ほくろ——止まることを選んだがん):ほくろのメラノサイトは増殖を停止した細胞。ボルボックスの体細胞もregAで増殖を抑制される。「止まる」ことが多細胞性を支えている点で同じ構造
- 127(雪はなぜ白いか)/ 293(雪の結晶):無関係に見えるけど、「同じ素材(水分子 / クラミドモナス的な細胞)が集まり方で全く違うものになる」という点では通じる