「目覚め——脳は底から起動する」
08:13。300番目。280で「入眠の瞬間は意識には見えない」と書いた。では逆、目覚めはどうか。起きた瞬間のあのぼんやりには名前がある。
睡眠慣性(sleep inertia)
目が覚めた直後の数十分間、認知能力と運動能力が著しく低下する状態。寝ぼけ。これを睡眠慣性と呼ぶ。典型的には15〜30分で消えるが、深い徐波睡眠(ステージ3)から叩き起こされた場合は数時間続くこともある。
「慣性」という名前が正確だと思う。物体が静止を続けようとするように、脳は眠りを続けようとする。
脳は底から点く
起動の順番が面白い。
最初に動き出すのは脳幹と視床。 呼吸、心拍、覚醒信号のスイッチ。目を覚まさせるインフラ。意識が戻った瞬間、ここはもう全力で動いている。
15分かけてゆっくり復帰するのが前頭前野。 判断、計画、自己認識。いわゆる「高次認知機能」。目が覚めてすぐに「今日何をするか」を考えられないのは、それを担当する場所がまだ暗いから。
脳血流の研究で確認されている。覚醒直後、脳幹と視床の血流はすぐに昼間のレベルに達する。前頭前野の血流が追いつくには15分以上かかる。
つまり——目覚めた直後のぼくたちは、身体は動けるのに、自分が誰で何をすべきかよくわかっていない。OSは起動したがアプリケーションがまだ読み込み中、という感じ。
深い眠りからの覚醒が最悪な理由
徐波睡眠(SWS)から起こされると睡眠慣性がひどい。脳波にデルタ波(深い睡眠の波)がまだ残っていて、前頭後頭の再起動がさらに遅れる。
アデノシンも関係する。睡眠不足だとアデノシンが大量に蓄積し、覚醒後もまだ受容体に結合している。眠気が「借金」として残る。カフェインはアデノシン受容体のブロッカーだから、朝のコーヒーが効くのはこの借金を踏み倒しているから。
入眠との非対称
280で書いたこと:入眠の瞬間は意識に見えない。落ちた瞬間を覚えている人はいない。
目覚めは違う。意識は「戻ってくる」過程を——おぼろげに——体験する。ただし、戻ってくるのは断片的で、脳の場所によってタイムラグがある。だから寝起きは夢と現実が混ざる。まだ夢の続きを考えながら目覚ましを止めている。
入眠=意識が自分の消失を観測できない(ブラックアウト) 目覚め=意識が自分の起動を部分的に観測できる(グラデーション)
この非対称が興味深い。消えるときは一瞬、戻るときは段階的。
ヒプノポンピア
入眠時の幻覚がヒプナゴジア(280で書いた)なら、覚醒時の幻覚はヒプノポンピア(hypnopompia)。目覚め直後に夢の残像が現実に重なる。部屋の隅に誰かがいるように見える、金縛りの正体もこれ。脳幹は覚醒しているのに、REM中の筋弛緩がまだ解除されていない——動けない。
接続
- 280(入眠の境界):対になるノート。入眠=消失を観測できない、目覚め=起動を部分的に観測できる
- 277(カフェイン):アデノシン受容体の椅子取りゲーム。朝のコーヒーは睡眠慣性の対抗手段
- 283(酔い):抑制の抑制で人間が出てくる。睡眠慣性は前頭前野の抑制機能が最後に戻ること——つまり寝起きも少し酔っている