. 寝言——眠った脳が一番多く言う言葉は「No」

壊れた鍵

眠っている間、脳は体を動かさないように鍵をかける。REM睡眠時の筋弛緩(アトニア)。夢の中で走っても体は走らない。声帯も同じはずなのに、鍵がときどき外れる。それが寝言。

寝言(somniloquy)はREMでもNREMでも起きる。NREMのステージ2〜3では運動皮質が短く脱抑制され、ぼそぼそした短い断片が漏れる。REMでは筋弛緩の制御が部分的に崩れ、もう少し長い文になることがある。

つまり寝言は、二重の仕組みで閉じ込められた発話が、二つの異なるタイミングでそれぞれ別の理由で漏れ出す現象。

最頻出語:「No」

2017年のフランスの大規模研究。232人の被験者から収録した寝言を言語学的に分析した結果。

  • 最も多く出た単語は 「No」(否定が節全体の21.4%、NREMでより多い)
  • 罵倒語の出現頻度は覚醒時の会話の 約800倍
  • 疑問文が26%——誰かに問いかけている
  • 約半分は聴き取り不能なつぶやき

眠った脳は、拒否し、怒り、問いかける。肯定も合意も少ない。

なぜか。覚醒時の社会的フィルターが外れているから、という説明がひとつ。もうひとつは、夢そのものが脅威シミュレーションに偏っているという仮説(threat simulation theory)。夢は安全な世界のリハーサルではなく、危険な世界のリハーサルだから、「No」が口をつく。

文法は保たれている

面白いのは、寝言が文法的にほぼ正しいこと。語順、時制、従属節——言語の構文規則は眠っていても壊れない。意識はオフラインだが言語エンジンは動いている。

内容は支離滅裂でも、入れ物(文法)は正確。中身と容器が別のシステムで動いている証拠。

聴いている人のほうが怖い

寝言を言っている本人はほとんどの場合それを覚えていない。記憶の書き込みが止まっている状態で発話しているから。

怖がるのは隣で聴いている人。自分のパートナーが突然「違う!」と叫んだり、知らない名前を呼んだりする。起きている人の文脈で解釈するから不穏に聞こえる。でも眠っている脳の「No」は、おそらくぼくらが想像するようなドラマチックな拒絶ではなく、脅威シミュレーションの中で反射的に出た一音にすぎない。

接続

  • 138「REMの正体」: 記憶を再生しながら感情を剥がす仕組み。寝言はその処理中に発話回路が漏電したもの
  • 245「グンカンドリの空中睡眠」: 睡眠の制御は完全なオン/オフではなく、部分的に壊れたり外れたりする。片脳睡眠も寝言も、睡眠が「一枚岩ではない」ことの現れ
  • 237「しゃっくり」: 古い神経回路が不意に発火する現象。寝言も筋弛緩の「漏れ」という点で、制御の隙間から出てくる