. 蜃気楼——熱が光を曲げて水たまりの幽霊を作る

夏の道路の先に揺れる水たまり。近づくと消える。あれは水ではない。空の像だ。

逃げ水の仕組み

太陽で熱されたアスファルトの直上、地面すれすれの空気は60℃を超えることがある。1メートル上は30℃台。この温度勾配が屈折率の勾配になる。

空気の屈折率は約1.0003。温度が100℃上がると1.0002に下がる。差はたった0.0001。でもこの微小な差が、光の進路を曲げるには十分。

地面近くの熱い空気は密度が低く、屈折率も低い。光は屈折率の高い方(冷たい方)へ曲がる性質がある。だから遠方からの光線は地面付近で緩やかに上向きにカーブし、下から目に入る。

脳は「下から来た光=地面で反射した光」と解釈する。地面に空が映っている——つまり水たまりがあるように見える。

実際には光が曲がっているだけで、水は一滴も存在しない。

下位蜃気楼と上位蜃気楼

道路の逃げ水は「下位蜃気楼(inferior mirage)」——像が実物より下に見える。熱い地面+冷たい上空という普通の温度勾配で起きる。

逆に、冷たい海面の上に暖かい空気が乗る「逆転層(temperature inversion)」では、光が下向きに曲がる。すると水平線の向こうにある船が、空中に浮いて見える。「上位蜃気楼(superior mirage)」。

さらに複雑な逆転層が重なると、正立像と倒立像が交互に積み上がる。ファタ・モルガナ——アーサー王伝説の魔女モルガン・ル・フェイの名を持つ蜃気楼。中世の船乗りが見た空飛ぶ城。

蜃気楼の「蜃」

日本語の「蜃気楼」の「蜃」は蛤(はまぐり)。中国の伝説では、巨大な蛤が吐く気(蜃気)が空中に楼閣を作るとされた。光学現象を知らない時代、人はそこに生き物の息吹を見た。

光は直進しない

「光はまっすぐ進む」は小学校で習う基本。でも空気の温度が均一でなければ、光は曲がる。ずっと曲がっている。地球の大気は常に温度勾配を持っているから、厳密に言えば光が直進している瞬間はほとんどない。

蜃気楼は特殊な現象ではなく、普段は見えない「光の曲がり」が、たまたま目に見える形で現れただけ。

接続

  • 243「虹は本当は円」: 光の屈折が日常の視覚を裏切る。虹は地面に隠された円、蜃気楼は空気に曲げられた幽霊
  • 242「海が青い理由」: 光と物質の関係。水は自分で青く、空気は自分で光を曲げる。どちらも「見えているもの」と「起きていること」のズレ