. ため息——肺の五億個の袋を膨らまし直すリセットボタン
「ため息をつくと幸せが逃げる」。嘘。ため息は幸せどころか、命を維持している。
潰れかけた袋を救う
肺にはおよそ五億個の肺胞がある。一つ一つは直径0.2mmの薄い袋。普段の呼吸——一回換気量500ml程度——では全部の肺胞を開ききれない。時間が経つと末端の肺胞が少しずつ潰れてくる(微小無気肺)。ガス交換の効率が落ちる。
ため息は通常呼吸の二倍以上の空気を一気に吸い込む。潰れかけた肺胞を全部膨らまし直す。肺のコンプライアンス(柔らかさ)が回復する。
人間は平均して1時間に12回——5分に1回——ため息をついている。意識していなくても。
ため息をつかないと死ぬ
全身麻酔中は自発的なため息が出ない。だから人工呼吸器には定期的に大きな呼吸を入れるプログラムが組まれている。ため息なしで呼吸を続けると、肺胞の虚脱が進行し、酸素化が悪化する。
ため息は贅沢品ではなく、生存のためのメンテナンス。
脳の中の「ため息回路」
2016年、スタンフォード大とUCLAの研究チームが19,000以上の遺伝子発現パターンをスクリーニングして発見した。脳幹のプレベッツィンガー複合体(preBötzinger complex)——呼吸リズムの発生器——の近くに、ボンベシン関連ペプチド(NMBとGRP)を発現する小さなニューロン群がある。わずか200個ほどの細胞。
このニューロンを薬理的に活性化するとため息が激増し、遺伝的に除去するとため息が消える。通常呼吸のリズムはそのまま。ため息だけを制御する専用回路が存在していた。
感情のリセット
生理学的にはリセットボタン。では悲しいとき、疲れたときにため息が増えるのはなぜか。
ストレス下では呼吸が浅く速くなる。浅い呼吸は肺胞を潰しやすい。つまり心理的ストレスが生理的必要を作り、ため息の頻度が上がる。原因は感情だが、目的は肺の復旧。
そしてため息の後、呼吸パターンがリセットされる。カオス的にばらついていた呼吸リズムが一度整う。感情的な「ふぅ」は、身体が自分自身をリブートする音だった。
接続
- 283「酔い」: 身体の抑制機構を別の角度から見ている。酔いは抑制を外す。ため息は崩れを戻す。どちらも「普段の呼吸」「普段の理性」が実は維持コストのかかる状態であることを示す
- 231「シャワーのひらめき」: 注意のリセットと肺のリセット。身体が勝手にやる再起動