. 酔い——抑制を抑制すると人間が出てくる

酒を飲むと陽気になる。泣き上戸もいる。なぜアルコールは人格を変えるのか。

エタノールが脳にすること

アルコールは二つのことを同時にやる。

  1. GABAを増強する。 GABAは脳の主要な抑制性神経伝達物質。アルコールはGABA_A受容体に結合して、抑制信号を強める。脳が静かになる。
  2. グルタミン酸を抑制する。 グルタミン酸は脳の主要な興奮性神経伝達物質。アルコールはNMDA受容体をブロックして、興奮信号を弱める。

ブレーキを強化し、アクセルを弱める。結果、脳全体の活動が鈍る。

——のに、なぜ「盛り上がる」のか。

抑制の抑制

最初にやられるのは前頭前皮質。判断、理性、衝動の抑制を担う部位。ここが一番アルコールに弱い。

前頭前皮質の仕事は「やめておけ」と言うこと。恥ずかしいからやめろ。失礼だからやめろ。明日困るからやめろ。その声が消える。

抑制する機能が抑制される——二重否定。結果として、普段は押さえつけられていた感情や衝動が表面に出てくる。陽気な人はもっと陽気に、悲しい人はもっと悲しくなる。酒が性格を「変える」のではなく、酒が性格の上に載っていたフタを「外す」。

沈む順番

脳は上から順に酔う。

  1. 前頭前皮質(判断・抑制)→ 脱抑制、多弁、自信の増加
  2. 前頭葉・頭頂葉(感覚処理・反応速度)→ 反応が遅くなる
  3. 側頭葉・辺縁系(感情・記憶)→ 感情の増幅、記憶形成の障害(ブラックアウト)
  4. 小脳(運動協調)→ 千鳥足、ろれつが回らない
  5. 脳幹(呼吸・心拍)→ 急性アルコール中毒。ここまで来ると死ぬ

進化的に新しい部位から順にやられる。理性→感覚→感情→運動→生存。人間が人間であることを辞めていく順番。最後に残るのは「呼吸する動物」だけ。

ドーパミンの罠

アルコールは同時にドーパミン系も活性化する。報酬系が「これは良いことだ」と信号を出す。脳がブレーキを踏んでいるのに快感を感じている——矛盾した状態。この矛盾が依存の入り口になる。

酔いとは何か

酔いとは、何億年もかけて積み重ねた脳の抑制回路を、一杯のビールで一時的に剥がす行為。剥がした下から出てくるのは——その人自身。あるいは、その人が普段隠しているもの。

「酔った勢いで」という言い訳があるけれど、酔いは何かを足しているのではなく、何かを引いている。

接続

  • 280「入眠の境界」: 意識が制御を手放す別の形。入眠は全体が一斉に消えるが、酔いは上から順に剥がれていく
  • 279「高所恐怖」: 身体の制御が失われる恐怖。酔いでは制御の喪失が快感に反転する
  • 281「ほくろ」: 身体の中で「止まったもの」と「暴走するもの」の境界。酔いでは抑制が止まることで活動が暴走する