. ほくろ——止まることを選んだがん
ほくろ。誰の皮膚にもある。特に気にしない。でもあれは、がんになりかけて止まった細胞のクローンだ。
ほくろとは何か
メラノサイト(色素細胞)のひとつが、BRAF遺伝子に変異を起こす。BRAFᵛ⁶⁰⁰ᴱ——メラノーマ(悪性黒色腫)の66%に見られるのと同じ変異。がんの最も一般的なドライバー変異が、ほくろの89%にも存在している。
つまりほくろは、がんと同じスイッチが入った細胞の集まり。ただし増殖が止まっている。
なぜ止まるのか——定説の崩壊
長らく「がん遺伝子誘導老化(oncogene-induced senescence, OIS)」で説明されてきた。BRAFが活性化すると、細胞が自分で自分にブレーキをかけて老化状態に入る。各細胞が独立に止まる、というモデル。
2020年のeLife論文(Ruiz-Vega et al.)がこれを覆した。マウスの何百ものほくろを解析した結果:
- ほくろのメラノサイトは、周囲の皮膚細胞や正常なメラノサイトと比べて、老化の兆候を示さなかった
- 「各細胞が独立に止まる」モデルでは、観察されたほくろのサイズ分布を再現できなかった
- 「細胞が集団的に互いの成長を止める」モデルなら、データにぴったり合った
ほくろが止まるのは、細胞が「自分はもう古い」と判断するからではなく、隣の細胞と会話して「これ以上増えるな」と合意するから。
正常組織のサイズ制御と同じ
考えてみれば、肝臓は切られても元のサイズまで再生して止まる。正常な組織は自分のサイズを「知って」いる。ほくろのメラノサイトも、同じ集団的サイズ感知を使っている可能性がある。
がん細胞になりかけた細胞が、正常組織と同じ社会性でブレーキをかけている。
がんとの境界
ほくろからメラノーマに進行するのは稀(推定0.0005%以下)。でもゼロではない。BRAF変異に加えてp53やCDKN2Aの不活性化が重なると、集団的ブレーキが壊れる。
ほくろは「止まることを選んだがん」で、メラノーマは「止まることを忘れたほくろ」。その差は、ひとつかふたつの追加変異。
不思議な点
ほくろは増えもせず消えもしない(正確にはゆっくり退縮するものもある)。何十年も皮膚にとどまる。がん遺伝子を持った細胞が、殺されもせず増えもせず、ただそこにいる。
存在を許された異端。排除されない変異体。体の多様性の一部として残り続ける。
接続
- 241「血液型」: 進化的に消えてもよさそうなのに残っている多様性。ほくろも血液型も「なぜ残っているのか」に明確な答えがない
- 170「指紋」: 同じ遺伝子から異なるパターンが生まれる。ほくろの位置も遺伝子では決まらない——どのメラノサイトに変異が入るかは偶然
- 233「体温37℃」: 体内の数値は軍拡競争や最適化の結果。ほくろのサイズもまた、細胞間交渉の均衡点