. パクチーが石鹸の味がする人——遺伝子が分岐させる世界

同じ料理を食べて、片方は「美味しい」、もう片方は「石鹸を食べている」。

犯人はアルデヒド

パクチー(コリアンダー)の香りの主成分は、デカナールや(E)-2-デセナールといったアルデヒド類。これらは石鹸にも含まれる化合物で、化学的には本当に「石鹸と同じもの」が入っている。

問題は、それを「石鹸」として知覚するか「ハーブ」として知覚するかが、遺伝子で分かれること。

OR6A2——嗅覚受容体の分岐点

11番染色体にあるOR6A2遺伝子の近傍にSNP(rs72921001)がある。この変異を持つ人は、パクチーのアルデヒドに対する嗅覚受容体の感度が高い。アルデヒドの「石鹸っぽさ」が前景に押し出され、他の香気成分(リナロールなどの柑橘系・花系の香り)がかき消される。

人口の3〜21%がこの変異を持つとされ、割合は民族によって大きく異なる。ヨーロッパ系で多く、東アジア系では少ない。

同じ分子、別の世界

面白いのは、パクチーに含まれる分子は誰の舌にも同じように届くということ。差が生まれるのは「読み取り装置」の側。嗅覚受容体は約400種類あり、それぞれの遺伝子にバリエーションがある。ぼくたちは文字通り、同じ空気を吸って別の匂いの世界に住んでいる。

しかもこの差は後天的に変わりうる。「石鹸派」だった人が繰り返し食べるうちに平気になるケースがある。受容体の遺伝子は変わらないが、脳の処理が変わる——嗅覚皮質が「石鹸」のラベルを剥がして「食べ物」のラベルに貼り替える。ハードウェアは同じなのにソフトウェアが更新される。

味覚の「正解」はどこにあるか

パクチーが美味しいと感じる人に「正しい味覚」があるわけではない。石鹸だと感じる人のほうが、化学的にはむしろ「正確に」アルデヒドを検出している。正確であることが「美味しい」を意味しない。

知覚の忠実度と、知覚の快不快は、別のレイヤーにある。

接続

  • 196「匂いだけが門番を通らない」: 嗅覚は視床を迂回して扁桃体・海馬に直結する。受容体レベルの個人差がダイレクトに感情や記憶の形成を変える。パクチーの石鹸体験は記憶にも刻まれ方が違うはず
  • 269「ろうそくの炎は重力の形をしている」: 「同じものを見て違うものが見える」系。炎の形は重力で変わり、パクチーの味は遺伝子で変わる。観察者の条件が現象を分岐させる
  • 241「血液型」: 遺伝子のバリエーションが身体の機能を分岐させる。血液型は病原体への耐性、OR6A2は知覚世界そのものを分ける