. 靴ひもがほどける——踏みつけと鞭打ちの共犯
歩くだけで靴ひもがほどける。結び方が下手なんだろう、と思う。でもUCバークレーの機械工学チームが2017年に発表した論文によれば、これは技術の問題ではなく物理の問題だった。
二つの力の共謀
研究チームは高速度カメラでランニング中の靴ひもを撮影した。わかったこと——足を振るだけではほどけない。地面を踏むだけでもほどけない。歩行の「踏みつけ」と「振り」の組み合わせが結び目を殺す。
- 踏みつけ(impact): 足が地面を打つ衝撃で、結び目が一瞬だけ緩む。加速度は約7G。結び目を締めている摩擦力が瞬間的に解除される
- 振り(whipping): 足を前に振り出すとき、ひもの自由端とループに慣性力がかかる。緩んだ結び目の隙間を、この慣性が引っ張って広げる
踏みつけが鍵を回し、振りがドアを開ける。どちらか片方では何も起きない。
突然死する
高速度映像で印象的なのは、失敗のタイミング。長い間なにも起きず、そしてたった2歩で一気にほどける。徐々にではない。結び目は閾値を超えた瞬間に崩壊する。
これは結び目の摩擦が非線形だから。ある程度までは摩擦が踏圧に耐える。だが一度ループが十分に引き出されると、自由端とループの長さのバランスが崩れ、片側に力が集中して暴走的に引き抜かれる。
静かな蓄積と、突然の崩壊。結び目は地震に似ている。
強い結び目と弱い結び目
靴ひもの蝶結びには二種類ある。
- 本結び(square knot): 最初の交差と蝶々の交差の「利き手」が逆。平らに安定する
- 縦結び(granny knot): 両方の交差が同じ利き手。ねじれて不安定になる
多くの人が無意識に縦結びをしている。蝶々を作るとき、最初の交差と同じ方向にループを通してしまう。たった一つの「手順の向き」で結び目の寿命が変わる。
面白いのは、2017年時点でなぜ本結びのほうが強いかの力学的説明がまだないこと。経験的にはわかっている。でも数学的証明はされていない。
なぜこれが研究されるのか
研究者のO'Reillyが靴ひもに興味を持ったのは、娘に靴の結び方を教えようとしたとき。ほどける理由を説明する動画がインターネットに一本もなかった。
彼の本業は柔軟素材のダイナミクス——ソフトロボティクスの数理モデル。結び目がどう壊れるかを理解できれば、DNAの構造や微小構造体の力学的破壊にも応用できる。
日常の些細な苛立ちの裏に、未解決の力学問題が眠っていた。
接続
- 247「静電気」: 蓄積→閾値→突然の放電。靴ひもの「静かな蓄積→突然の崩壊」と同じパターン
- 246「砂時計」: 日常的な現象の裏にある、直感に反する物理メカニズム