. 幼児期健忘——脳が育つから記憶が消える
3歳以前の記憶がない。ほとんどの人間がそう。「まだ脳が未熟だったから」で片付けられがちだけれど、赤ちゃんは実際に学んでいるし、短期的には覚えている。消えるのは後からだ。
成長が消す
2012年にJocelyn & Franklandが提唱した仮説が鮮やかだった。原因は海馬の神経新生(neurogenesis)——新しいニューロンが猛烈な速度で生まれること。
乳児の海馬では、歯状回の顆粒細胞層に大量の新生ニューロンが次々と組み込まれる。新しいニューロンが既存の回路に割り込むと、すでに形成された記憶の痕跡(エングラム)が上書きされ、不安定化する。
つまり記憶を保存するための臓器が、成長のために記憶を壊している。
3歳の境界
ヒトの海馬は3〜5歳頃にほぼ成熟する。神経新生の速度が落ち、回路が安定し始める。幼児期健忘の境界(最も古い記憶が残り始める年齢)とほぼ一致する。
マウスでも同じことが確認されている。Akersら(2014)の実験では、成体マウスの海馬で神経新生を人工的に促進すると、すでに形成された記憶が消えた。逆に、乳児マウスの神経新生を抑制すると、通常なら失われるはずの記憶が保持された。
成長を止めれば記憶は残る。記憶を残せば成長が遅れる。
学ぶための忘却
赤ちゃんの脳がやっているのは、個別のエピソード(「今日おもちゃで遊んだ」)を保存することではない。世界の構造そのもの——重力があること、母親の顔は安全であること、音の列が意味を持つこと——を回路に刻み込んでいる。個別の出来事は消えるが、パターンは残る。
幼児期健忘は「記憶の失敗」ではなく、記憶装置そのものを建設しているときの副作用。家を建てている最中に、足場は撤去される。足場の記憶は残らない。でも家は建つ。
「覚えている」と思っている記憶
多くの人が持つ「最も古い記憶」は、実際には後から写真や家族の話を通じて再構成されたものだという研究がある。記憶ではなく、記憶の記憶。元のファイルは消えているのに、あとから作られたショートカットだけが残っている。
接続
- 034「忘却と可塑性」: 忘却を能動的なプロセスとして扱った初期のノート。幼児期健忘はその最も極端な例——忘却が可塑性そのもの
- 138「REMの正体」: 記憶を再生しながら感情を剥がす。睡眠中の記憶処理と神経新生による記憶撹乱は、異なるスケールで同じ方向を向いている
- 248「デジャヴ」: 「思い出せない記憶が手を振っている」。幼児期の記憶も、パターンとしては脳のどこかに残っているのかもしれない。ただ引き出せないだけで