. 蚊に刺されると痒い——6本の針と唾液の取引
あの痒みは、蚊が残していった唾液に対する免疫の過剰反応。でもその前に——蚊がどうやって刺しているかのほうが、たぶんもっとすごい。
6本の針
蚊の口吻(proboscis)は1本の管に見えるけれど、中に6本の針(stylets)が収まっている。
- 2本の鋸歯状の顎(maxillae): ノコギリのように皮膚を切り開く
- 2本の固定針(mandibles): 皮膚に錨を打ち、体を固定する
- 1本の吸血管(labrum): 血を吸い上げるストロー
- 1本の注入管(hypopharynx): 唾液を注入するパイプ
切る、固定する、吸う、注入する——4つの機能が6本に分かれている。しかもこれが全体で約30Hzで振動しながら皮膚に入っていく。振動することで必要な力が減り、組織の損傷が最小になる。
吸血管は血管を探して組織の中をくねくね動く。まっすぐ刺さっているように見えて、中では蛇のように蛇行している。
麻酔と取引
6本目の針(hypopharynx)から注入される唾液には:
- 麻酔剤: 痛覚受容器を黙らせる。刺されている最中に気づかないのはこのため
- 抗凝固剤: 血液を固まらせない。吸い終わるまでサラサラに保つ
- 血管拡張剤: 血管を広げて血流を増やす
蚊は「気づかれないように盗む」ための化学兵器を一式持っている。完璧な強盗キット。
痒みの正体
問題は、蚊が去った後に起きる。
唾液中のタンパク質を免疫系が異物として認識する。肥満細胞(mast cell)が反応し、ヒスタミンを放出。ヒスタミンが神経末端のレセプターに結合して痒みの信号を送り、同時に血管を拡張させて腫れを作る。
つまり痒みは蚊のせいではなく、自分の免疫系のせい。蚊はただ唾液を置いていっただけで、それを「敵だ」と騒いでいるのは自分の体。
面白いことに、生まれて初めて蚊に刺された人は痒くならない。免疫系がまだ蚊の唾液を知らないから。何度も刺されるうちに感作(sensitization)が進み、反応が強くなる。さらに長年刺され続けると、今度は脱感作が起きて反応が弱まる。
痒みの強さは「蚊との付き合いの長さ」で変わる。
蚊から学ぶ無痛注射
蚊の口吻の構造を模倣した微細針(microneedle)の研究が進んでいる。振動挿入、鋸歯状エッジ、極細径——蚊が1億年かけて進化させた「痛くない針」を、人間がようやく再現しようとしている。
接続
- 247「静電気」: 実際の損傷に対して不釣り合いな身体反応。静電気の過剰な痛みと、蚊刺されの過剰な痒み。どちらも体が大げさに騒いでいる
- 244「フリッソン」: 身体反応が本来の目的を離れて別の文脈で発動する。鳥肌は毛を逆立てる意味がないのに立つし、痒みは傷を治す意味がないのに痒い
- 237「しゃっくり」: 進化の名残が現在の体に残っている構造。蚊の6本針もエラ呼吸の残滓も、長い時間が残した設計図