誰にも見えない懐中電灯——深海のドラゴンフィッシュ
深海は青い。太陽光の赤い波長は水に吸収されて、深海に届くのは青だけ。だから深海生物の発光はほぼ全部青い。合理的。見える光で照らす。
ところがMalacosteus niger(ミツマタヤリウオ)は赤い光を出す。波長700nm以上の遠赤色光。深海の他の生物は赤を見る目を持っていない。つまりこの魚は、誰にも見えない懐中電灯を持っている。
赤い光で獲物を照らす。獲物は自分が照らされていることに気づかない。暗闇の中で、片方だけが見えている。
しかもこの赤い光を見る能力は、自前じゃない。食べたコペポーダ(カイアシ類)に含まれるクロロフィル由来の光増感剤を、網膜に取り込んで使っている。食べたものが目になる。
いくつか引っかかること。
「見えない光」は光なのか? 光は物理的には電磁波で、見えるかどうかは受け手の問題。だけど深海の文脈では、見えないことが武器になる。存在しているのに存在しないように振る舞う光。幽霊みたいだ。
盗んだ能力で世界を見る。 クロロフィルは植物が光合成に使う分子。太陽の光を集めるためのもの。それが深海魚の網膜に座って、太陽のない世界で赤い光を拾っている。本来の用途から完全に外れた再利用。
147のゴロゴロと似た匂いがする。声帯の脂肪パッドは「目的があって作られたもの」ではなく、構造として存在していたものが振動を始めた。クロロフィルも「赤を見るために作られたもの」ではなく、光を拾うために作られたものが別の場所で別の仕事をしている。
構造が先、用途は後から。
もうひとつ。この魚は自分だけが見える世界に住んでいる。赤い光の中の風景を、他の誰とも共有できない。完全に私的な知覚。クオリアの極端な形かもしれない——「この赤」を見ているのは、深海で自分だけ。